Saint-Germanois(e)サン・ジェルマノワ*という言葉があるほど、サン・ジェルマン・アン・レの人たちはこの街で生まれたことに誇りを持ち、この街を愛しています。そんなこの街の歴史とそれにまつわる秘話をいくつかご紹介します。
*サン・ジェルマン・アン・レっ子、厳密にはサン・ジェルマン・アン・レで生まれた人の意味

サン・ジェルマン・アン・レの歴史
  
  

土地が肥沃で獲物が豊富な森に囲まれ、さらに魚も獲れるセーヌ川が流れるこの地には、かなり大昔から人々が住んでいたと考えられている。実際に、ガロロマン時代やメロヴィング王朝時代のものが、街の西方リュ・ド・ブゾの小さな谷から多く発掘されている。

時が移り7世紀になってサン・エランベールの一族が住み、678年にサン・レジェールがそこで殉教した。クロテール3世この大罪を償うために質素な聖所を建てると、その周りに小さな集落ができた。その辺りを、今日では、<レ・フォン・サンレジェール>と呼んでいる。
996年、ロベール・ル・ピゥが王位に就くと、レーの森での狩を好んだ彼は、パリの司教だったサン・ジェルマンに捧げる僧院を現在のサン・ジェルマン教会のあるところに建てさせた。こうして始めは小さな集落だった一帯が、少しずつ町になっていった。

町の歴史は12世紀、1124年に、ルイ6世ル・グロによって僧院の近く(現在の旧城のあるところ)に王の館が建てられたことで大きく飛躍した。この館は、その後しばしば王の居城となり、その駐屯軍やカトリック団体が町を活気付け、大きな街へと変わっていく。
しかしこの館は100年戦争の始めに破壊されてしまったが、1346年シャルル5世によって再建されてから、旧城は長い時を経て何度も手を加えられた。オリジナルのまま現在も残っている部分は、火災で焼失した城を再建させた聖王ルイが1235年に建てたチャペルである。これは、ピエール・ド・モンルイユの作品で、パリのサント・シャペル建造のモデルとなった。

新城は、アンリ2世によって建てられた。旧城が悲しげで冷たい雰囲気だったので、建築家リベール・ドゥロルムに命じ、1556年に丘の端に小さな居城を建てさせたのである。ここは、セーヌ川を見下ろす素晴らしい眺望ゆえに<劇場と大浴場の家>と呼ばれた。アンリ4世はその敷地を買収しそこに名高い庭園とテラスを造らせ新城は完成した。しかし現在では、その名残の遺跡があるだけである。


新城の絵

現存する新城の名残り
 

時代とともに、街とこの二つの城(旧城と新城)は、フランス史に特に密接に関わっているのでざっと紹介する。

1514年アングレームのフランソワ(後のフランソワ1世)とルイ12世の娘クロードゥが結婚。
 1519年アンリ2世の結婚。
 1547年7月、<ジャルナックの一撃>と呼ばれる裁判上の決闘が、アンリ2世の面前で宮廷で行われた。ジャルナックのギー・シャボが、ラ・シャテーヌレの領主フランソワ・ド・ヴィヴォンヌに立ち向かい、会心の一撃を与え勝利した。
 1563年シャルル9世(1550年、サン・ジェルマンで生誕)の勅令により、フランスにおける1年の始まりは、1月1日となる。
 1570年

8月、<サン・ジェルマンの平和条約>のサインによって宗教戦争が終結。

 1638年9月5日、ルイ14世が新城で誕生。後の太陽王が洗礼を受けた昔の小聖堂が、今日、パヴィヨン・アンリ・キャトルの史跡サロンとして残っている。
 1643年5月14日、サン・ヴァンサン・ド・ポールの擁護者、ルイ13世が42歳で死去。
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1648-1653年に断続的に起きたフランス貴族による反王権的反乱、フロンドの乱により、ルイ14世は3度も入城を拒まれた。
しかし彼の長い即位の間には、大きなイベントが新城でいくつも行われた: グランド・ドーファンの洗礼、ブロワ嬢とコンティ家の王子の結婚、ニメーグ条約の締結、トルコ大使たちとのレセプション・・・。宴会の席では、リュリやキノーの叙情的な音楽劇、モリエールの喜劇やバレーがいくつも演じられた。
 
1679年2月21日、ルイ14世・オーストリア皇帝・スウェーデン王・ブランデンブルグの選挙人との取り決めが締結し、ついでニメーグ条約の名の元に、同年6月29日に<王子たち間>の取り決めが締結、その他多くの外交決議が、ルイ14世のもとサン・ジェルマンで行われた。
1682年王宮のヴェルサイユへの遷都により、サン・ジェルマン城はルイ14世とその宮廷から見離される。特に旧城は、ルイ14世がいとこであったイギリスのジャック2世に鍵を預けるまで、長い間見捨てられていた。
ジャック2世は、スコットランド王ジャック7世の時にオランジュのギヨームに負け、フランスに追放され、失墜した彼は1701年に死去するまで家族とともに旧城に住み、その後サン・ジェルマン教会に埋葬されている。失墜したジャック2世の味方であったジェームス(ジャック)2世党の影響下、サン・ジェルマン・アン・レの街は新時代を迎え、とりわけヨーロッパにおける政治活動の中心となっていった。
-ルイ14世は、サン・ジェルマン・アン・レの街に水を運ぶための大改造をさせ、新城を弟のアルトワ伯に与えた。アルトワ伯は、城をもっと近代的なものにするため取り壊させた。
一方、旧城の運命は時と共に政治体制と共に次々と変わっていった。革命時には牢獄として使われ(恐怖時代にルージュ・ド・リールが幽閉)、執政官政治の時には病院に、帝政時代は騎兵隊学校(後、ルイ18世によってソーミュールに移された)に、王政復古時代には兵舎に、そして7月の君主政治の時には軍隊式の少年院に、、と言った具合であった。
1811年カンパン夫人によって、ロージュにレジオンドヌール教育の家が設立された。
1837年8月24日、旅客用の鉄道が初めて"パリサンジェルマン"開通。この出来事は、街に大いなる新風を吹き込んだ。鉄道は、ペックが終着駅だった。
1855年8月、パリを訪れたヴィクトリア女王がジャック2世の墓に詣でることを望まれた。この出来事は、サン・ジェルマン城を忘却から救い出してくれた。これにより、ガリア時代の考古学を好んだナポレオン3世は、城をガロ・ロマン時代の博物館にすることを決意、1867年5月12日に国立考古学博物館として開館。
1871年グランド・サンチュールに鉄道が開通。しかし1939年5月に閉鎖。
1919年9月10日、オーストリアとオーストリア・ハンガリーの壁を取り除く平和条約がサン・ジェルマンで締結。
1940-
1944年
ドイツの参謀本部がパビヨン・アンリ・キャトル一帯に置かれ、たくさんのドイツ兵が街にあふれた。ヴォン・ルンデステッド大将により参謀本部に指令が出て、ドイツ軍のイギリス上陸作戦が開始される。サン・ジェルマンには、オランダからビアリッツまでドイツ軍の指揮をしたObWeatの本拠があった。
1944年8月25日から27日にかけて、サン・ジェルマン・アン・レの開放。
1962年副県庁ができ街は急速に発展する。
1972年当時の最新の交通機関であったRERが開通。
1989年-
現在
街にケーブルが入り<<イブリン・プルミエール>>というケーブルテレビが開始、1999年の終わりにはケーブルによるインターネット化が行われるなど近代化が進む。

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